文学のまち金沢 鏡花文学賞

金沢の文化的魅力発信

金沢の文化的魅力発信

金沢市では、昭和48年に、郷土の文豪・泉鏡花の生誕百年を記念し、鏡花の功績を讃えるとともに、「文化の地方分権を」、「金沢から文化の発信を」との熱い想いを込め、泉鏡花文学賞を制定しました。全国に広がった地方文学賞のさきがけであり、多くの優れた作家を生み出すとともに、幾多の文学賞の中でも、極めて高い評価を得ています。
ここでは、泉鏡花文学賞の受賞作家が金沢をテーマに書き下ろしたエッセイを紹介し、「文学のまち金沢」の新たな魅力を発信します。

泉鏡花文学賞受賞作家による
ショートエッセイ

『守りながら進化する金沢』

綿矢 りさ

 大規模な焼き物市に行くと、日本の津々浦々からやって来た伝統の食器が並んでいる。そのなかで濃い鮮やかな色遣いと異様なほど細密な模様で一際目立つのが九谷焼で、初めて見たときから惹かれていた。泉鏡花賞の選考委員として金沢へ毎年行くようになってからは、市内にある瀬戸物屋さんに入っては気に入る物が無いか探す。白鳥路ホテル山楽に宿泊したときは朝食のブッフェでコーヒーカップやお茶碗、宿泊部屋でランプにも九谷焼が使われていて、生活になじんだ、九谷焼のこなれた使い方に憧れた。
 九谷焼の窯元でも吉田屋が特に好きだ。オリエンタルな東洋の文化全体を感じる。みずみずしく濃い深緑色とぶつぶつと黒点の撒かれた芥子色との共存が鮮やかで美しい。嘴と眼光の鋭い野鳥が鋭く虚空を睨んでいる柄など、鳥を描いたものが特に印象に残っている。
 九谷焼の絵柄には少しだけ洋風の、シャンデリアかクロスのネックレスのような模様が一緒に描かれているときがあり、なぜこんなモチーフが?と不思議に思っていた。ある瀬戸物屋さんに置いてあった解説書で知ったが、九谷焼にはキリシタンの意匠が込められているものもあるらしい。九谷焼とキリシタンの関係は諸説様々あると思うが、全国的なキリシタンの弾圧がなされる中でも文化の保護育成に寛容な藩主のもと、信仰心が文化活動に昇華したことで、日本古来の文化と、西洋文化が融合し、優れたデザインを生み出したのではないか。
 現代の九谷焼はアニメやキャラクターとのコラボが成功している。面白いと思ったのはコロナをはね除ける疫病退散の守り神アマビエを取り入れたシリーズ。アマビエ自体の持つ妖怪っぽい不思議な容姿と由緒ある紋様の九谷焼が絶妙にマッチしているので、アマビエ模様の箸置きを買った。
 古風な柄なのに新規の事象も取り入れやすい九谷焼のポテンシャル。古きものを大切にしつつ新しいものを取り入れてさらにニーズの寿命を伸ばすなんて、金沢という街にも言える特長だなと、伝統工芸を生かした新規オープンのショップの前を歩きながら思う。

 金沢のお料理を言い表すなら〝基本もウマい〟に尽きると思う。初めは加能蟹やのどぐろ、輪島ふぐや能登かきをはじめとする海鮮などの豪華なスター食材に心を奪われっぱなしだったが、何度か訪れて心を落ち着かせて食べてみると、基本の食材の味の良さに気づいた。
「きっと名人の板前さんが握ったお鮨なんだね、しゃりがめっちゃウマい」
などと一緒に来た家族と言い合ってホクホクしていたのだが、海鮮丼を食べたときにようやく気づいた。
 握り方やない、米が美味いんや~!
 もちもちして、でも水っぽくなく、食べ応えのある米は握りたて、炊きたての味がする。金沢おでんの美味しさも、控えめな出汁の味に浸りきった、野菜やねりものなどの素材の味の良さが抜きん出ている。

 金沢で初めて雷が鳴ったのを聞いたとき、〝これはかなり音が大きいからじきに激しく雨が降り出すな、午後からの外出予定は残念だけど中止にするしかないな〟と思った。1日が雷雨で潰れるなんて残念だなと思いながら、車の助手席に座りシートベルトを締めた。どこか喫茶店でも入る?などと夫と話しながら市内を走行していると、雷は激しく鳴り続けているのに、雨の勢いはそれほどでもない。しばらく様子を見ていたら、雷は急に収まって晴れ間が差してきた。おかげでその日の予定はどれも中止せずに済んだ。車窓から晴れていく空を見上げていたとき、私の頭には以前金沢の料亭に行ったときに、店の人が口にした
「石川県は日本で一番雷の多い県ですからね」という言葉を思い出した。すっかり忘れてしまっていたのを、実際に自分が体験して初めて思い出したのだった。金沢での雷や雨との付き合い方を自分なりに学んだ日となった。
 さっきまで晴れていたのに急に空を覆う灰色の厚い雲も激しい雷も、武家屋敷の厳めしさを漂わせる金沢建築の黒々と光る屋根瓦と雰囲気が似ていた。
 金沢の町並みや工芸品に、上品さと共にどこか厳しさを感じるのは、金箔や豪華な絵柄を、濃い焦げ茶や塗りの光る黒が引き締めてるからだろう。故郷の京都にも引き締め色はあったが少なく、濃紺や濃いめの灰色ぐらいで、金沢ほど濃い色は使ってなかった記憶がある。この濃い引き締め色は家屋の屋根に近い部分にも使われ、暖かい季節に訪れても、やがてやってくる厳しい冬の寒さをなんとなく想起させる。ときには静かに堪えることが品と威厳につながる。私にとって金沢はそんな印象を受ける街だ。

  1. 綿矢 りさ
    (わたや・りさ)

  2. 1984年京都府生れ。2001年『インストール』で文藝賞受賞。早稲田大学在学中の04年『蹴りたい背中』で芥川賞受賞。12年『かわいそうだね?』で大江健三郎賞、20年『生のみ生のままで』で島清恋愛文学賞受賞。ほかの著書に『ひらいて』『夢を与える』『勝手にふるえてろ』『憤死』『大地のゲーム』『手のひらの京』『私をくいとめて』『意識のリボン』『オーラの発表会』などがある。泉鏡花文学賞選考委員。

無断転載は固く禁じます。


『色彩海光金沢/人』

笙野 頼子

 金沢に行きたしと思へども、え、金沢?若き日の憧れの地、しかしなぜ最近こんなに夢に出てくるのだろう、金沢。なんだろうねまるで本当に行った事あるように懐かしくてたまらないね?おっ、そうそう、そうだったよ……。
 そう言えば二十年も前(中年期)に一度訪れた。それ以来今も夢に出てくる色彩、覗き込んでしまうような深く冴えた色、黒い海と華やかで落ちついた光、でも、……。
 思い出を書くとなると何よりも人だ。「楽しかった」もあるし、その中にいた、初めて会ったのに懐かしい人々、「あの時」、――土地の人に少ししか接触しなかった。なのにふと思い出す。穏やかさの中の静かな親しみ。そんな人情の中で、そこを訪れた元からの知り合いと語り合う楽しさ、……。
 私は若い頃京都にいて、あれは学生に優しい町だったけど、卒業してしまうと住みにくかった。史跡の闇は濃く観光女子を狙うものがいた。
 ところで金沢、たった一泊だが安心な旅だった。そう「あの時」、――飛行機に乗ったのも生まれて初めて、私が泉鏡花文学賞を拝受したのは2001年晩秋。
 亡き森茉莉(第三回『甘い蜜の部屋』)の「幻」に遭遇したと称し、空想のなかで語りかけた『幽界森娘異聞』、第二十九回の受賞作である。
 その選考会は十月であった、当日、ふいに家に電話、その声の主は、え?金井美恵子さん(第七回『プラトン的恋愛』)、「あなた猫たちを留守番させるには」……。
 というのも選考会の時か後に「授賞式に来るだろうか、笙野には猫が」と言われていたからだ。私には中国行きやニューヨーク行きを猫故に断った過去があった。でも金井さんは家族を留守番させる方法を教えてくれた。ただ出掛けるのは大変、四匹を分けて預けたり人を頼んだり。とはいえ、出無精の理由、実はそれだけではない。
 私はどこにも行ったことがなかった。いつも痛くて疲れるし熱が出たから。当時は自分がリウマチ系の難病だとは知らなかったけれど。そして?空を飛んだ!
 空港から市の車に乗せて貰い、小学生の頃からずっと見たかった日本海を見た。大半は堤防で隠れている黒く冴えた海、飛行機からの海よりもそわそわする。運転は黒縁眼鏡をかけた公務員の男性、既に洗練と親切さが同居していた。適切に言葉少なく、質問には誠実に答えてくれる。土地の発声やアクセントは初めてなのに落ちつく。
 到着しすぐに地元の記者会見、ずっと一緒にいても疲れないボランティアの方々。そこからの時間?楽しいのにもう時系列が溶けてしまっている。
 懇親会の会場で金井美恵子さんにご挨拶した。お洋服に猫の毛がついていますよ(嘘)と私が言うと金井さんはついてない(正解)と怒る。「猫を飼っているのによく黒なんて着るね」と黒を着た私に言う。「違う!猫の毛は飾りです、猫の毛が、と言われたら毛がついていなくとも、自分の猫自慢をしても良いという合図なんですから」、と私は釈明し、その後は猫話。
 昔深夜ラジオで聞いていた山崎ハコさんの本物を近くで見た。授賞式のアトラクション?写真よりずっと華奢で折れそうな美少女(に見えた)、パワフルな歌声に圧倒された。
 夜は和式の会食、普通はきついのにこれが怖くない。酒の席が洗練され穏やかだから。
 私がお酒を飲まないでいると、観光振興のため着物姿になっている市長さんが、杯洗(というもの)を自分で運んで来て、この儀式(献杯)に関する私の質問に丁寧に答え、杯を逆にして(少ししか飲まないので)その中にお酒を三滴だけ注いで勧めてくれた。
 その後、ホテルの部屋で自分の体がなぜこんなに疲れやすいのか悔しかった。窓から下の夜景はしっとりとして、この季節こそ金沢を歩きたい。が、既に足は二倍に腫れ明日靴がはけるかどうか。
 翌日、それでも空港でお土産を買う力は残っていて、親戚に蕪ずしを送り自分用にお手玉を二個だけ買った。それは猫耳に金の鈴、薄い桃色暈し縮緬製。猫の顔は垂れ目さん。但し、……。
 この「自分用」、旅から帰ったら三枝和子さん(第十一回『鬼どもの夜は深い』)が入院していたのでお見舞いに持っていった「あなたこれ自分が欲しくて買ってきたのではないの」と三枝さんは心配してくれた(でも置いてきた、気に入ったみたいだった)。
 そのすぐ後、お土産のなくなった私の家に、ある方が金沢から(個人で)手掘りの印鑑を送ってくださった。それは青灰色の縞模様の石、小振りな印に笙の字が古代人の顔のように畏まっていて、渋可愛い。
 その十四年後、家にまたもや渋可愛い手鞠到来、長野まゆみさん(第四十三回『冥途あり』)のお土産である。
 自分の今抱えている困難やら、この厳しい世相が落ちついたら、なんとかしてもう一度金沢を訪れたい。望むこと?例えば私のような高齢の難病の女性であっても、安心してのびのびとお湯に入れる、夜の町を散策出来る金沢であってほしい。

(提供:講談社)
  1. 笙野 頼子
    (しょうの・よりこ)

  2. 1956年三重県生まれ。立命館大学法学部卒業。81年『極楽』で群像新人文学賞受賞。91年『なにもしてない』で野間文芸新人賞。94年『二百回忌』で三島由紀夫賞、同年『タイムスリップ・コンビナート』で芥川龍之介賞、2001年『幽界森娘異聞』で泉鏡花文学賞、04年『水晶内制度』でセンス・オブ・ジェンダー大賞、05年『金毘羅』で伊藤整文学賞、14年『未闘病記――膠原病、「混合性結合組織病」の』で野間文学賞をそれぞれ受賞。他、著書多数。最新作は21年『猫沼』、拾った猫のために家を買った作家としても知られている。

無断転載は固く禁じます。


『幸福な目移りを許す街』

山田 詠美

 私が金沢市主催の泉鏡花文学賞を受賞したのは、一九九六年のこと。しかし、いただいた賞の華やかな重みに、緊張のあまりほおっとしてしまい、金沢という街の魅力を味わう術もないまま、授賞式に出席した翌日、慌ただしく東京に戻ったのでした。
 あの時は、受賞の喜びもさることながら、北國新聞に載った私のエッセイを読んで、小学一年生の時の担任だった堀ふみ先生が、わざわざ会いに来てくださった感激がとても大きかった。実は、私は、父の転勤で幼い頃、ほんの短い間でしたが、加賀市大聖寺に住んでいたことがあるのです。
 もの心付いてから、引っ越しばかりしている自分の境遇を思い、常に心細い気持を抱えていた私に、堀先生はとても優しくしてくださった……という内容だったと記憶していますが、まさか、お読みになるとは……そして、足を運んでくださるとは……。さらに感動したことには、先生は、帰りの小松空港までいらして見送ってくださった!その際にいただいた御自身の手による句集の題名は「翔る」。今も私の本棚の特等席にある宝物です。
 大袈裟かもしれませんが、あの時、土地や書物や人との出会いの記憶などが交錯すると、稀に時空を超えるのだなあ、と感慨で胸がいっぱいになってしまいました。文学、泉鏡花、金沢、そして、幼い頃の記憶、それらすべてがそろわなくては、堀先生との再会は叶わなかった訳です。
 あれから早や二十四年。今年(令和二年)で五度目の泉鏡花文学賞の選考委員を務めました。私は、他の文学賞の委員も経験がありますが、この賞には何か特別なものを感じているのです。それが、先に書いた「時空を超える」要素のひとつである、土地。
 授賞式の前後に金沢の街を歩くようになり、最初は右も左も解らず、ガイドブック片手にうろつくばかりでしたが、やがて、吹き抜ける風や漂う空気、変わりやすい空の色まで楽しめるように。あくまで、よそ者として控え目に、ですが。
 今や、さまざまな旅行ガイドは言うまでもなく、インターネットなどからの情報もたっぷりと得ることが出来る時代。そこに行かずとも行ったような気分だけは得ることが可能です。でも、私は、やはり歩き回って、五感をフル活用しながら、知らなかった街を堪能したい。実際にながめて、感嘆の溜息をついてみたい。そして、私という物書きしか紡げない言葉で形容してみたい。
 金沢は、よそ者に幸福な目移りを許す土地だと思います。
 絢爛豪華な金箔に包み込まれたような建造物があるかと思えば、長い歴史を吸い、今も威厳を保つ城や神社仏閣もそびえたつ。いなせな風情が漂うかつての花街の側には、偉大なる文学の舞台ともなった川が流れ、それでも少し歩いてみれば、現代アートの美術館がアヴァンギャルドな姿を見せている。美しい矛盾の集合体。
 知的好奇心と艶っぽい想像力とスタイリッシュな感性への憧れ。それらすべてを満たすものが、決して広くはないエリアに、ぎゅうっと凝縮されているのです。街歩きの醍醐味をこんなにも満たしてくれる場所を、私は、あまり知りません。
 とりわけ私は、尾張町、橋場町界隈を散歩し、浅野川に出る道筋が好きです。夕暮れ、梅ノ橋を渡り、鏡花の名作「義血侠血」に登場する水芸役者〈滝の白糸〉の像をながめて、縁あって引き寄せられた文学者を偲んだりします。
 このあたりの建物は、どれもレトロで、洒脱な雰囲気をかもし出しているのですが、昭和初期に銀行として建てられたビルを改装した金沢文芸館が何とも言えず味わい深いのです。階によって、交流サロンや文芸フロアに分かれているのですが、特筆すべきは二階の「金沢五木寛之文庫」。文学のスタート地点であり、第二の故郷でもあるという金沢と五木寛之氏の深い関わりを知ることが出来るコレクションギャラリーとなっています。その中で、私が目を奪われ、思わず「きゃーっ」と叫んでしまったのは、五木と世界的有名人たちとのポートレート。ローリングストーンズのミック・ジャガー、キース・リチャーズそれぞれと一緒に写っているものは、粋を極めたアーティスト同士といった趣で、これまで私が見た、どの日本人とのものより格好良く、クールだった!僭越ながら、その写真に心奪われて見入っている自分も仲間に入れていただいているような気がして……またもや「時空を超えた」魔法にかかったようでした。
 東京に帰る間際に、新しくなった金沢港のクルーズターミナルに立ち寄りました。あいにくのコロナ禍で人は少なかったのですが、五木さんの本の題名さながらに、風に吹かれて、海を見ていた。そして、心に留め置いたのは、数多くの一期一会という美しい矛盾の詰まった金沢の街への想いでした。

  1. 山田 詠美
    (やまだ・えいみ)

  2. 東京都生まれ。1985年『ベッドタイムアイズ』で第22回文藝賞を受賞しデビュー。87年『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で第97回直木賞、89年『風葬の教室』で第17回平林たい子文学賞、91年『トラッシュ』で第30回女流文学賞、96年『アニマル・ロジック』で第24回泉鏡花文学賞と、文学賞を次々と受賞。その後も現代文学の旗手として旺盛な執筆活動を続け、2001年『A2Z』で第52回読売文学賞、05年『風味絶佳』で第41回谷崎潤一郎賞、12年『ジェントルマン』で第65回野間文芸賞、16年『生鮮てるてる坊主』で第42回川端康成文学賞を受賞する。『賢者の愛』『つみびと』ほか著書多数。泉鏡花文学賞選考委員。

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『文化を呼吸する町・金沢』

寮 美千子

 金沢と深いご縁を得たきっかけは、二〇〇五年の第三十三回泉鏡花文学賞の受賞だった。それまでも金沢は何度か訪れ、すてきな町だとは思っていたが、その真価を知ったのは、この賞がきっかけだった。授賞式は、わたしが五十歳の誕生日を迎える前日。スピーチをせよと事前に市から言われていたが、なんと三十分間もある。慌てた。何を話したらいいのか。人様に演説できるような何物もないから、自分で自分をネタにするしかない。
 三十一歳で「毎日童話新人賞」を受賞して作家デビュー以来、絵本、童話、そして小説も上梓してきた。しかし、一度も「文学」として扱われることがなかった。子どもを主人公にすると、自動的に「児童文学」に分類されてしまうからだ。もどかしかった。そこで、一念発起、初めて大人を主人公とした作品を書いたのが『楽園の鳥—カルカッタ幻想曲』。泉鏡花文学賞をいただき、ようやく文学扱いしてもらえることになった、と感じていた。(それは夢だったと後で知ることになるのだが、それはまた別の話)。その藪漕ぎの人生を、作品の抜粋の朗読を交えて語ろうと、書影を入れたパワーポイントを用意した。「いつか泉鏡花賞を獲れる作家になりたい」と願い、以前、石川近代文学館の表札の前で「I shall return」とポーズしている写真も入れた。笑える。
 いざスピーチ。スコットランドで買った少年用の短い紺色のジャケットを着て壇上に立った。男性がキルトスカートの上に着るあれだ。心の底からありがたかったので「ありがとうございます」と深々とお辞儀をした。本当に深々と、そして充分に時間を掛けて頭を下げつづけた。
 その様子を見て、会場で笑いを噛み殺している人がいた。『茶房犀せい』の村井幸子さんだったが、そのときは、知る由もない。「姿が見えなくなって、それからいつまでも戻ってこないから、もうどうなることかと…」と後で笑いながら話してくれた。
 その翌日の十一月二十三日は金沢文芸館の開館日。昭和初期の銀行だった石造りの近代建築を、市が文芸館に改修したのだ。すばらしい建物、うらやましいような文学の拠点。開館式典に出席すると、会場に来ていた村井さんが声をかけてくださった。「今日はお誕生日なんですってね。おごるから、店にいらっしゃいよ」。昨日のスピーチを覚えていてくださったのだ。夕刻になり、香林坊交差点そばの店の階段を恐る恐る上った。村井さんは約束通り、おいしい赤ワインを一本開けて、誕生日と受賞を祝してくださった。店にいるみなさんも、いっしょに祝ってくださった。うれしかった。
 そこから、わたしと金沢の濃い関係が始まる。『茶房犀せい』は、金沢の文化人たちが集まるバーだった。東京で言えば、新宿の『風花』に匹敵する。北國新聞の雑誌で連載も始まり、講演会にも呼ばれ、金沢に行く機会も増えた。行けば必ず『茶房犀せい』を訪れ、様々なジャンルの人と飲み、語った。だれより、村井さんのお話が面白かった。彼女は、新聞記者出身で、金沢でさまざまな文化活動をしているキーパーソンだった。
 村井さんが別けても熱心に語ってくださったのが「金沢ジュニアオペラスクール」のことだ。子どもにオペラを見せるのではない、子どもたちとともに新作オペラを作っているという。金沢芸術創造財団の主催で、村井さんはプロデューサーだった。
 ある晩、村井さんから電話がかかってきた。次回のオペラの脚本を書かないかという。びっくりした。やったことがないというと「やったことのないことをしたことがないの?」と聞かれた。ぐうの音も出ない。不安も大きかったが、挑戦したかった。「もし書くとしたらどんな作品を」と聞かれ、とっさに思い浮かんだのが『ラジオスターレストラン』だった。流星群の晩、少年が不思議なレストランに招かれ、時空を巡る壮大な旅をする物語だ。地球環境問題と核汚染をテーマにしていた。村井さんはわたしを脚本家に推薦、作曲は谷川賢作さん、演出は丹下一さんでオペラ『ラジオスターレストラン─星の記憶』が作られることになった。二〇一〇年八月にオーディションがあり、これを受けた小学二年から中学三年までの二十八名全員が「金沢ジュニアオペラスクール」に入校。中には人前で声も出せないような引っ込み思案の子さえいた。開校から七カ月後、東日本大震災と原発事故が起こり、オペラのテーマは期せずしてタイムリーなものになったことも不思議だ。
 それから丸二年、二〇一二年八月の金沢歌劇座での本公演までの時間ほど、濃密な時間はなかった。地元出身のオペラ歌手たちが子どもたちの指導にあたり、子どもたちは目覚ましい成長を見せてくれた。舞台装置は金沢美術工芸大学の学生が、衣装は地元の人々が製作。メイクアップも地元のプロが買って出てくれた。子どもの親たちも、コーラスで参加。市役所職員はもとより、ともかくみんなが一丸となって、作品を仕上げていく。すばらしい熱気だった。
 足繁く金沢に通ううちに、この町の輝きが表面的ではないことに気づいてきた。農家のおじさんが宝生流の謡曲をうたう。当たり前のように抹茶を点てる。町にはいたるところに美術館・文学館・記念館があり、文豪関連だけでも、泉鏡花、室生犀星、徳田秋聲と三館もある。「金沢ふるさと偉人館」に行けば、どれだけの偉人たちをこの都市が輩出してきたのかが一目瞭然だ。金沢はまさに文化の町。人々は空気のように文化を呼吸して生きてきた。だからこそ、この町は輝いて見えるのだ。
 偉人館で桐生悠々の展示を見た。旧加賀藩士の息子で旧制第四高等学校に進学。小学校以来の友人だった徳田秋聲と東京に家出をし、まだ工事中だった碓氷峠のトンネルを歩いて渡ったという。「憂国と反骨のジャーナリスト」として知られ、歯に衣着せず政権と軍部を批判したことで失職。それでも個人誌「他山の石」を出版し続けた人だ。こんな時代だからこそ、彼の業績に新たな光が当てられている。
 実は、わたしの祖父で翻訳家であり科学ライターだった寮佐吉は、桐生悠々の年若い友人だった。悠々が亡くなるまで「他山の石」に寄稿していた。文化を通じてつながる地下水脈が、わたしと金沢の間にも流れていたことを知って、胸が熱くなった。
 「金沢ジュニアオペラスクール」の事業は、市長の交代とともに廃止になってしまった。受講生の中には、音大に進学した子らもいる。金沢のために創られ、ただ一度だけ上演されたオペラは、いまも譜面として存在している。毎年、ペルセウス座流星群の晩に、金沢でこのオペラが上演されるような日がいつか来ることを、夢に見ている。

  1. 寮 美千子
    (りょう・みちこ)

  2. 東京生まれ。1986年『ねっけつビスケット チビスケくん』で第10回毎日童話新人賞受賞し、デビュー。2005年『楽園の鳥─カルカッタ幻想曲』で第33回泉鏡花文学賞受賞。翌年、奈良に移住。刑務所の名煉瓦建築を見に行ったことがきっかけで、奈良少年刑務所で詩の授業を行い『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』などを上梓。著書に『父は空 母は大地 インディアンからの伝言』『イオマンテめぐるいのちの贈り物』『エルトゥールル号の遭難 トルコと日本を結ぶ心の物語』『夢見る水の王国』『ラジオスターレストラン 千億の星の記憶』など、題材も幅広く、絵本、詩、小説、自作朗読と活躍は多岐にわたる。

無断転載は固く禁じます。


『なつかしい金沢』

金井 美恵子

 のっけから金沢男子の悪口になって少しばかり気が引けるのですが、泉鏡花の大正四年に書いた随筆の中の「加賀ッぽ」に雑口を浴びせている文章を引用します。

「加賀の人間は傲慢ごうまんで、自惚うぬぼれが強くて、頑固でわからずで」ことに士族などときては、「その悪癖が判然と発揮されて、吾々町人共はまるで人間とも思わないと云ったような傲慢不遜ふそんな態度の不可好いけすかない特性は、同郷人たる私でさえ嫌で仕方がない。(中略)それに百万石だぞと云ったらがりが、今日でもその性格の奥にひらめいているのが、何よりも面白くないと思う。」(「自然と民謡に─郷土精華(加賀)」『鏡花随筆集』吉田昌志編岩波文庫)

 百万石の大藩だけに、自惚れ方が一段と強かったこともあるでしょうが、鏡花の生きていた時代には、どこの藩の出であれ士族は「らがり」の態度をとっていたでしょう。
 同じ金沢出身の室生犀星の故郷に対する屈折した愛憎にも士族という身分制度がかかわっているのですが、鏡花も犀星も、女性的なものの側から士族的・・・な傲慢不遜な差別を、激しい嫌悪感でもって、その俗悪さを強調します。優美なたおやめのつよさと弱さを美しい文章にするのですが、何しろ古風なので沢山の人々に読まれるものではないのかもしれません。
 それにつけても寒くなった頃、金沢から取りよせた五郎島金時と加賀蓮根を食べながら、つくづく思うのは、若い頃はヒクチコやカラスミの珍味系は渋すぎておいしさがわからず、香箱ガニのグラタンが大好きだったなあ、と言うことで(今でも好きですが)、それよりも淡い甘さを持った加賀蓮根を料理したあれこれをしみじみおいしいと思うようになったのは、もちろん年のせいです。鏡花の小説の世界の魅力も年と共に理解が深まったのと同じことでしょう。
 蓮根といえば、犀星の娘の朝子がエッセイに、犀星が蓮根(すりおろした物を平にして焼いた蓮根餅)とバラちらしのおすしが嫌いでにおいをかぐのもいやがるものだから、いかにも加賀らしいこの二つの料理を食べるのは留守の時に限られていたと書いていたのを思い出しましたが、加能ガニの小ぶりなメスに香箱ガニと名付けたのは犀星だと何かで読んだことがあるから、故郷の食べものを嫌ったというわけではないようです。
 鏡花賞第二十回目の記念すべき回(平成四年)に受賞者として招かれた時、どういう経緯でそうなったのか、当時文芸雑誌「すばる」の編集長だった石和鷹氏(十七回『野分酒場』で受賞)に誘われて、金沢市役所文化課の熟年男性と三人でお酒を飲みに行くことになりました。石和さんの酒飲みの鋭いカンで、市役所の男性が居心地の良いおいしい居酒屋を心得ている人物だということがピンときたのでしょう。二十八回目に選考委員をおひき受けした時には、もうその男性は文化課にはいなかったのですが、案内してもらった店のおでんの味(金沢のおでんのあのこうばしい香りはいしる・・・いしり・・・が使われているのだと思います)と共に忘れられないのが、彼が、自分はやもめで家で一人で飲む晩酌にさかなはフグの卵巣のぬかづけがあったら、もう本当に幸福なのだと、本当に幸福そうな表情で言い、石和さんが真面目な顔でうなづいていた中年男二人の酒場での不思議に静かな共感の空間の雰囲気──こちらが入りこめないような──を思い出します。
 鏡花の嫌う偉らぶった「加賀ッぽ」も、金沢に今でもいるのでしょうが、冬の寒い日が続いて、霰がふったりすると、石和さんと市役所の男性のことを思い出します。そして、そうだ今日はおでんだな、と思うのです。フグの卵巣のぬかづけは苦手なのですが──
 そしてもう一つ、書いておきたいものがあります。いかにも鏡花の世界のものだと思いながら、時間におわれる滞在のせいでまだ見る機会のない、子育ての守護神・鬼子母神を祀る金沢の真成寺の「百徳ひゃくとく」です。子供の成長祈願が成就したお礼参り奉納された子供の着物で、子供が丈夫に育っている家や長寿の年寄りのいる家から小さな端切れをもらい集めて、丹念に丹念にはぎあわせて綴った小さな着物は、目を見張るような鮮やかな色彩です。四、五年前に『背守り─子どもの魔よけ』というLIXILギャラリーのブックレットで見たのですが、加賀友禅の優雅なはなやかさに比べ、つつましい楽しみと辛抱強い針仕事で出来た子供の魔よけを願った手仕事は、いわゆるハレとは別の、いかにも親密な魅力的な力を持っています。
 大人の着物の背中のはぎあわせた縫い目には、背後から忍び寄る魔を防ぐ霊力が宿るとされていたのですが、身幅の狭い一つ身の子供の着物には背縫いがないので、その変りの魔よけとして飾り縫のお守りをつけたのが「背守り」です。
 鏡花の作品の中に具体的にこの背守りが出て来るかどうか、不勉強な私は知りませんが、この言葉の暖かなひびきといい、きれいな針目で優しく縫った糸目といい、背守りの写真を見ただけでも、鏡花の作品世界が背守りにしっかりと守られていて、この世とは別の魔の世界のものまでが味方をしているという気がしてくるのです。鏡花の父方の祖母の実家が、釣鉤と縫い針で有名な目細屋であるのも、背守りとの関連が深そうな気がします。
 私にとって金沢はどうしても泉鏡花と泉鏡花賞とのつながりを通して深々とした魅力をたたえる、なつかしい町なのです。

(撮影:御堂義乗)
  1. 金井 美恵子
    (かない・みえこ)

  2. 群馬県生まれ。高崎高女卒業。第8回現代詩手帳賞を受賞し、『タマや』で第27回女流文学賞を受賞。『プラトン的恋愛』で第7回泉鏡花文学賞を受賞。著書に『岸辺のない海』、『文章教室』、『スクラップ・ギャラリー 切りぬき美術館』、『カストロの尻』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞、『金井美恵子エッセイ・コレクション全4巻』、詩集『花火』など多数。泉鏡花文学賞選考委員。

無断転載は固く禁じます。


『鏡と、水のはたて』

長野 まゆみ

 台風がとおりぬけた朝、テレビ画面に水没する新幹線が映しだされ、北陸新幹線の車両基地だと伝えている。十日後に金沢へ出かける予定だった。切符も買ってある。「北陸新幹線に乗れない」と気づいて駅へ走った。日程の変更はできないので、ルートを変える。
 京都経由で、特急に乗りかえて金沢へ行くことにした。窓口で「米原経由ではなく?」と訊かれ、「はい、京都で」と答える。胸のうちでは「サンダーバードに乗って琵琶湖をながめたかったので」と理由をのべている。鳥好きとしてはその特急が「雷鳥」という名称で、雪白のライチョウを描くヘッドマークをつけていた当時に乗りたかったのだが、きっかけがなかった。百閒先生のように阿房列車を運行する才もなく。
 京都を発って、琵琶湖の湖畔をゆく。詩人の吉増剛造さんが京都を旅する映像詩を観たのは、ちょうど一年前のこと。そのナレーションによれば、京都の地下には琵琶湖の水量に匹敵するほどの水がある。私はこのたびはじめて琵琶湖を目にする。それは予想以上にひろかった。古人はこの湖面のかたちが琵琶に似ているから琵琶と名づけた、というが、いったいどこから全貌を見たというのだろう。
 東京から五時間半かけて、金沢についた――北陸新幹線ならば三時間半なのに。荷物をあずけ、二〇一九年の夏に開館したばかりの《谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館》へ出かけた。城下町の風情をのこす古都金沢は、いっぽうで《二十一世紀美術館》をはじめとする現代建築の街でもある。今回はその、モダン建築を観る旅だ。
 東京の住人である私には、谷口吉生氏が設計した葛西臨海公園の建築群がなじみ深い。はじめてその建物を目にしたのは真夏だった。真っ白な日盛りの広場のはてに、ガラスの箱がある。それは臨海公園のゲートで、開口部から水平線がみえる。まぶしさの先のうっすらと青い線が目に沁みた。
 ほとんどの人はこの建物に滞在することなく、まっしぐらに水族館をめざしてゆく。だから、ゲートの二階へのぼったときにはだれもいなかった。空調の音だけがかすかに聞こえ、ガラスごしの青空にかこまれている。透かし見る青と、映りこむ青がまじりあう。遠く都心のビル群がみえる。なんて贅沢な空間なんだろう、と思った。その細長く白い床のはてに海がよこたわる。
 高層ビルやタワーマンションのように〈ハイ・ライズ〉こそ現代的とする風潮にさからって、ひららかな空間は海をわたって水平線に接続する。金沢建築館でも建物は通りに面して横へのびてゆく。垂直を目ざさないことは、もはやこのうえない贅沢でもある。
 古風な邸宅ならば、縁先に月を映す水鏡があることを涸れ山水でたとえるが、この建築館では意図的に水の庭となっている。しかも、そこは二階であり、眼下に犀川河岸をのぞむ。露台のごとく張りだす水面は寒天でもあるかのように静まり、縁から滴る水音ひとつ聞こえない。
 微風でかすかにゆれるものの、水がこぼれおちる気配はない。この日は曇天で、映しだされるのは暗い雲ばかりだったが、だからこそ、水の底に沈む景色も謎めいていた。
 地階の展示フロアでは、谷口吉郎の初期から晩年までの作品群をたどる開館記念特別展がひらかれていた。谷口吉生の父であり、モダニズム建築をこの国で実践した最初の人でもある。「打ちっぱなし」コンクリートの構造物による美をつくりだした。
 つづいて、《鈴木大拙館》へ向かう。谷口吉生の設計に特徴的な、面と垂直線との対比が見どころとなっている。思ったとおり、ここはヨーロッパ系外国人の見学者が多い。フランス語でささやく人たちのかたわらをぬけて、細く長く閉じた廊下をゆく。そこは〈内部〉を意識するようにつくられている。通りぬけたさきに「水鏡の庭」と名づけられた水辺がある。
 水面とほぼおなじ平面にある回廊と、坐して考えるための思索空間がもうけられている。だが、落ち着きのないわたしはウロウロと歩く。小雨が降りしきり、水面は水の輪でにぎわう。自然現象であるのに人工的な同心円のつらなりに目をうばわれる。そこへ、突如として水音がひびいた。
 ――生物の気配のない水辺なのに?
 雨粒がつくる水の輪とはちがう波が起こり、扇型の波となって――Wi-Fiのマークにも似て――水鏡にひろがった。それは静寂への機械的な介入なのだ。しかし、テーマパークとちがい、ここでは妖精も魔物もあらわれない。そのかわり、波紋になにを見てもかまわない。
 わたしたちの日常が、時間で区切られていることを意識するための、あるいはその時間から逃れ得ないことを納得するための装置。
 翌日は、《金沢海みらい図書館》へ出かけた。これまでの金沢訪問では、市の中心部から遠すぎて足をのばせなかったところだ。港方面へ向かう路線バスに乗り、しばらく走った。海の気配はするものの、まだ海など見えない停留所で下車した。
 真っ白な穴あきチーズのような建物である。設計は堀場弘+工藤和美/シーラカンスK&H。本の虫は自分のからだとおなじ幅の孔を穿つ、ということをなんとなく思いだした。パンチングウォールという工法で、六千個のガラスブロックを打ち込んであるそうだ。
 入口へ向かう足もとに、菫が咲いている。――十月末なのに。目をこらせばタンポポも咲いている。どちらも強かな在来種。これは異変ではなく温暖化への適応とみる。
 図書館のロビーでは、和船模型の展示中だった。能登半島は、かつて船による交易で栄えた土地だ。加賀平野で収穫された米は琵琶湖を経由して消費地である大阪へ運ばれていた。ところが瀬戸内の船主たちが日本海経由の航路をつかい、遠回りだが格安で荷運びをするようになる。すると北陸にもこの航路をつかう船主があらわれる。これらの船は北前船と呼ばれ、寄港地には豪商の館がならんだ。金沢市ならば金石や大野のあたり。来しなのバスの終着地だ。いまはその面影もなく、港へ向かうひろい道路に昼間は人影もまばらだった。
 図書館の建物のなかで、穴をのぞきこんでみた。船室の窓を模しているのだった。さらに、吹きぬけの回廊から見わたせば、海の泡が立ちのぼる景色となる。たくさんの窓からのうっすらとしたひかりにつつまれて書物がならんでいる。うらやましい読書室だ。「加賀は天下の書府」と称えた時代があることを思いだした。
 帰路も京都経由で。長旅なので、ふだんは買わないお弁当をもとめた。カキ飯とさざえのいしる煮など、海の幸がつめこまれたおいしい一折だった。

(講談社/金栄珠)
  1. 長野 まゆみ
    (ながの・まゆみ)

  2. 東京生まれ。
    1988年『少年アリス』で第25回文藝賞受賞。2015年『冥途あり』で第43回泉鏡花文学賞、第68回野間文芸賞を受賞。
    『天体議会』『テレヴィジョン・シティ』『猫道楽』他、2008年刊行の『改造版 少年アリス』など、自ら挿画を手がけている著書多数。『カルトローレ』『左近の桜』『咲くや、この花』『さくら、うるわし』『チマチマ記』『兄と弟、あるいは書物と燃える石』『銀河の通信所』など。現在も文芸各紙で活躍を続けている。
    2016年から「やまなし文学賞」の選考委員。
    • 長野まゆみの公式サイト 耳猫風信社(http://mimineko.co.jp/)
    • 公式Twitter 耳猫風信社(@mimineko_nagano)

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『金沢おでんの誘惑』

嵐山 光三郎

 金沢へ行き、なじみの居酒屋のカウンターで酒を飲んでいると、デイパックをかついだヨーロッパ系青年が入ってきて「オデン、オデーン」と言った。一緒にいた金沢在住の新聞記者が応対すると「金沢おでんの店を教えてくれ」とのことだった。記者氏は紙に地図を描いて近所のおでん屋二、三軒を教えた。おでん屋はどこも満員で、すぐに入れるか、行ってみなければわからない。
 昭和四十三年、結婚したばかりのカミさんを連れて金沢を訪れた。大雪が降って、金沢の町はどこもかしこも銀世界であった。兼六園の霞ヶ池や、金沢城の石川門、長町武家屋敷といった定番のコースを歩き、日が暮れたころ小さなおでん屋に入った。板きの屋根に石を乗せた店構えで、店へ入るとおでんが煮えるにおいにつつまれた。
 おでんのほか、小アジの南蛮漬け、きりぼし大根、ポテトサラダ、小イカの煮つけなどがカウンターの上に並んでいるが、メインはおでんである。大根はずんぐりむっくりした源助大根を使う。金沢市打木町うつぎまちの松本佐一郎が昭和十七年(ぼくが生まれた年)に開発した大根で、太さが均一で煮くずれしないため、おでんの具として高く評価されている。加賀れんこんなどの加賀野菜もあり、里芋やタケノコやギンナンの実もあった。
 なんといっても豪華なのは日本海の魚介類で、つみれ(摘入)は各店がイワシやメギスを加えて作る。口に入れるとほろほろとほどけるつみれは金沢の魔法ともいえる逸品である。大型の白バイも金沢ならではの味わいだ。豆腐、はんぺん、ゴボウ巻き、コンニャク。おでん種は季節によって変るが、車麩くるまふもちきんは初めて食べた。牛すじ煮込みはトロトロで舌になじみ、ふんわりと溶けるやわらかさ。
 雪がしんしんと降るなかで、おでんを肴にして熱燗の酒を飲んだ。それは身にしみる幸せな時間だった。それから五十年余がたち、最近はカニ面というおでん種ができた。ズワイガニのメス(香箱こうばこ)の身とタマゴとミソをほぐして甲羅につめ、糸で表面を縛った様子が剣道の面頬めんぽおに似ているため、カニ面という。
 金沢は日本有数の高級和食料亭が覇を競っているけれど、庶民が食べるおでんの風格とパワーもただならぬものがある。おでんの店は学生と教授、職人と旦那、おばちゃま、じいさん、市長、地元の客と観光客が、それこそおでんの具のように肩を並べて寄りそっていて、それも金沢の底力であろう。
 金沢おでんへの偏愛がたかまり、四年前に嵐山作詞・中村誠一作曲の「金沢おでんの唄」を作って中村誠一ジャズコンサートで発表した。ラテン調で〽オデン・オデン・オデーンとスキップする曲で一番から四番まである。「金沢おでん」という名は、地元の客には耳慣れないものだったが、北陸新幹線が開通すると、あっという間に全国に広がった。のみならずヨーロッパにも広がり、デイパックをかついだ外国人に知られるようになった。二十代のころは、ぼくもデイパックをかついでフランスやポルトガルやモロッコを旅したが、食べに行く店は値の安い店ばかりだった。そのときわかったのは、料理は町のバロメーターで、力のある町は安食堂でもうまい。荒れている町は、なにを食べてもまずい、ということであった。
 いまは、金沢のおでんの老舗はどこもかしこも満員で、地元のなじみ客が入れなくなった。人気の急上昇は住んでいる人には迷惑な話だろう。「金沢おでん」を言いふらした私にも責任の一端がある。
 という次第で「人情しみる金沢おでんを語る懇話会」が開かれた。おでんだけで懇話会を開催してしまう金沢市のフットワークのよさにビックリで、ぼくもコメンテーターとして出席した。金沢市内で、創業五〇年以上の老舗おでん店やかまぼこ店の代表がメンバーである。話題となったのは「ソモソモ金沢おでんとはなんであるか」という定義である。「車麩・赤巻・ふかし・バイ貝・カニ面・金沢銀杏ぎんなんを使ったひろず・源助大根などの加賀野菜といった金沢独特の具」を使う。だしはそれぞれの店の五〇年余の技があってさまざまである。ちなみにぼくが五十余年前にいった店のだしのベースは、昆布・かつおぶし・鶏・たまねぎである。たまねぎは汁のアクを吸いとって、野菜の甘みをひき出す。コハク色の澄んだ汁のなかで、具の味が渾然一体こんぜんいったいとなり、源助大根にしみている。金沢おでんを食べるときは、冬でも夏でも、まず源助大根から味わって下さい。そのつぎはつみれだな。つみれは店の腕の見せどころで、どの店も金沢ならではの味わい。
 かくして「老舗50年会」が結成されて確認書にサインをした。毎月二十二日を「金沢市民おでんの日」とし、そのココロは「フーフーと吹いて食べるから」だって。おでんの老舗が団結して味を守っていくなんて、じつに愉快な話ではありませんか。

  1. 嵐山 光三郎
    (あらしやま・こうざぶろう)

  2. 静岡県生まれ。平凡社「太陽」編集長を経て独立、執筆活動に専念する。『素人庖丁記』により講談社エッセイ賞受賞。『芭蕉の誘惑』によりJTB紀行文学大賞、『悪党芭蕉』により、第34回泉鏡花文学賞、読売文学賞をダブル受賞。著書に、『追悼の達人』、『文人悪食』、『漂流怪人・きだみのる』、『枯れてたまるか!』、『芭蕉という修羅』など多数。泉鏡花文学賞選考委員。

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『雨の金沢、月曜日の美術館』

中島 京子

「そんな、あんた、傘も持たんで」
 タクシーの運転手さんが、呆れた。
 晴天に気をよくして天気予報などすっかり忘れ、にしの茶屋街を散策していたら、ぽつりぽつりと降り出して、車を拾おうと大通りに出たところで、雨はザーッと音を立て始めた。
 慌ててトタン屋根のついた駐車場に駆け込んで流しのタクシーを待つが、なかなか来ない。雨脚は強まるばかりだ。ようやくつかまえた一台に乗り込んで、ハンカチで頭やら腕やらの雨を拭っていると、冒頭の言葉が出たのだった。
 数分も乗らないうちに小降りになってきて、運転手さん、こんどはのんびりした声で、
「さっき乗ったころが、いちばん降ってたんやないかなあ」
 と言った。そう言ううちにも晴れ間が出た。
「あ、晴れた」
「晴れません」
 きっぱり、運転手さんは否定する。
「またすぐ降る。それが、あんた、金沢やから、しかたがない。ずっと雨や」
 ずっと雨やと言われたので、目的地に行く前にホテルに戻って傘を借りることにする。
運転手さんに、金沢でうまいものは食べたのかと聞かれたので、
「食べました! 香箱!」
 即答すると、やおら嬉しそうになる。
「カニというと、北海道やと思うでしょう。北海道のは、こんな大きいのに、身がちょっとしか入っとらんことがある。香箱は小さいが、身が詰まっとってうまいですよ。二ヵ月だけやさけね。まあ、食べとったらええです。ブリは?」
「ブリ? ブリはまだ」
「食べんと」
「白エビの唐揚げ美味しかったです」
「白エビも食べんとね」
 ホテルの脇でちょっと待ってもらって、傘を借りてまたタクシーに乗り、予約したお鮨屋さんの名前を告げると、車はスッと走り出した。
「場所、わかりますか?」
 念のために聞くと、金沢のことなら何でも頭に入っていると請け合った後で、
「なーんて、違うとったりして。あそこやったと思うけどな」
 と、ボケをとって笑わせながら、お鮨屋さんの前で車を止めた。
 私がそこで寒ブリを食べたのは言うまでもない。
 近江町市場をひやかして歩くと、また、いくつものカニが私を誘惑してくる。金沢は季節ごとに美しい姿を見せてくれるし、季節ごとにおいしい食べ物も用意してくれるし、何より、オールシーズン楽しめる漆器や陶器やお菓子や加賀友禅などの魅力が溢れている街なのだから、いつ来てもいいし、いつでも来たいのだ。
 と思ってもつい、
「カニの季節にまた来よう」
と考える。
 休みがいつ取れるかわからなかったので、行き当たりばったりの金沢行きを決めたのは、ほんの数日前のことだった。それで、メインの日程が月曜日になり、美術館はほぼ閉まっているから、この前来た時に入り損なった古本屋さんにでも行ってみようかと思いついた。
 せせらぎ通りの「オヨヨ書林」では、竹久夢二の日記を買った。二冊セットで二千円。夢二の晩年のヨーロッパ行きに関心があって、昔一度、ベルリン時代の夢二が出て来る小説を書いたことがあるのだが、あれをいつかもう少し、ちゃんとした長編にできないかなと、時々ぼんやりと考えることがあるので、旅先でこういう本に出会うと、ちょっとした縁を感じて、いつか書けるかもしれないと考えたりする。
 店にあったチラシを見ながら、そうか、ここではライブもやるのか、次に来るときはライブもいいなと思う。来るたび、何かやり残してしまうから、また来ようと思い立つ。
「金沢文圃閣」は、閉まっていることが多いと聞いたので、月曜日でもあることだし、あまり期待していなかったが、この日は運よく開いていて、その広さに心躍らせながら、ここではどんな「ご縁」があるのかと、棚を不用意に倒したりしないように気をつけて歩く。
 買いはしなかったけれど、見つけて嬉しくなったのは、一九八六年一二月の『主婦の友』で、なぜならそこには二十二歳の私の原稿が掲載されているからだ。大学四年生のときに、その小さな新刊本紹介記事の仕事を始め、卒業して日本語学校に勤めていたころも続けていた。私の物書きとしてのキャリアの、ほぼスタート地点の記事に、胸が少し温かくなる。こちらでは、絶版になっている古山高麗雄の短篇集を買う。二百円という、幸せになるお値段で。
 文圃閣からは犀川沿いの遊歩道を散歩して、室生犀星記念館を訪れた。金沢の、いくつもある文学館の中で、唯一訪れていなかった、この小さな記念館に行き、また、そこから、にしの茶屋街までぶらぶら歩く。いい天気だったのだ。そこまでは。
 時系列から言うと、ここで雨が降り、私はタクシーを拾ったのだった。
 帰りに、ホテルから金沢駅まで乗ったタクシーの運転手さんも、金沢は楽しかったかと話しかけてきた。
「21世紀美術館は行かれましたか?」
「何度か行ったことがあります。今回はほら、月曜で閉まってるし」
「あー、でも、入れますよ」
「え? 閉まってるのに?」
「無料で入れるエリアがありましてね。そこだけでも楽しいですよ。休館日だから人は少ないですしね」
 そうでしたか。
 次にまた、雨降りの月曜に金沢に行っても、やることはたくさんありそうだ。

  1. 中島 京子
    (なかじま・きょうこ)

  2. 1964年東京都生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒。出版社勤務を経て渡米。帰国後の2003年『FUTON』で小説家デビュー。10年『小さいおうち』で直木賞、14年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞、15年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞、同年『長いお別れ』で中央公論文芸賞、16年日本医療小説大賞を受賞した。他に『平成大家族』『パスティス』『眺望絶佳』『彼女に関する十二章』『ゴースト』等著書多数。

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『天空の激変とまちの規模』

村松 友視

 金沢が、その特徴的な天空のけしきの変化と、天の配剤ともいうべき絶妙なまちの規模の組合せによってなりたっていることを、ある時期から強く感じるようになった。
 金沢では、晴、曇、雨、風、あられひょうみぞれ、雪、雷など一年じゅうの天気を一日のうちに味わうことができる・・・と、金沢の友人に自慢げに言われ当初は首をかしげたが、何度か金沢へ通いつめた今となっては、その言葉にはうなずかざるを得ぬ気分になっている。
 弁当忘れても傘忘れるな・・・の箴言にあらわれるように、急変する天候は金沢での暮らしにとって、大いなる厄介のひとつではある。ただ、その気まぐれ的激変をともなう天空のけしきが、金沢人に独特の打たれ強さを植えつけてきたようにも思われるのだ。どのような事態にさらされても、それにたじろぐことなく柔軟性をもつエネルギーで受け入れ、自己流に咀嚼する、金沢人らしいセンスは、激変を常とする天候に洗い込まれる日常と、どこかでつながっているのではなかろうか。
 冬に入る季節の雷を、その恐ろしさを感じつつ鰤起こしと呼び、「さあ、いよいよ鰤が獲れる頃や」と受け止めるあたりからも、金沢人特有の打たれ強さをベースとしたしたたかな気分を感じさせられるのだ。
 「雷」は、一般的には夏の季語となっているが、金沢の雷は鰤起こしと結びついている。季語にいたずらを仕掛けるがごときこの冬の空模様を、金沢人は加賀百万石の城下町らしい食文化ともかさねて、悠然と打ち眺めるセンスをはらんでいるように思われるのだ。
 また、金沢出身の作家である泉鏡花が生み出す虚と実、光と闇、善と悪、日常と非日常、生と死などの溶け合いやにじみ合いも、激変を特徴とする天空のけしきに日常の中で馴染む金沢人の感性と、無縁でないような気がするのだ。
 文壇の主流となった自然主義文学から吹く逆風にさらされる憂き目にさいしても、あがき苦しみ屈伏するという筋道にいたらず、大衆文化の美意識との交流の中で、新たなる色彩を次々と生み出し、自己の世界を堅持する柔軟な強靱さ、そしてその作品の不滅ともいえる生命力を思いかさねるたびに、私は激変する天空のいたずらを飼い馴らす、金沢人の比類ない精神力とつなげてしまうのだ。
 その鏡花の生家にほど近いところにある久保市くぼいち乙剣宮おとつるぎぐうの境内にしばしたたずんだあと、本殿横の、かつては主計町への隠れ道であり、日常の生活から非日常的遊び空間への花道でもあった「暗がり坂」を下りれば、そのまま主計町茶屋街の路地へとみちびかれる。
 往年のよすがにひたりつつ路地を散策するうち、向こうからはしってくる木の葉を巻き込んだ風に気を取られ、ふと道に迷ったかのごとき気分にそそのかされる。我に返ってよけた風の行方を追って歩けば、いきなり浅野川沿いのひらけた風景に迎えられる。このように、金沢の求心的魅力と遠心的立地条件の妙を瞬時に味わうことができるのも、金沢を歩く醍醐味というものだろう。
 そういえば、金沢のまちは車で移動するより、歩いて楽しむべしという言葉を聞いたことがあった。かつての百万石の城下町も、現代の巨大都市にくらべれば、まことにコンパクトな規模に仕立上がっている。パリの石畳に車より馬車が似合うように、金沢のまちの移動には、歩きがふさわしいようだ。
 片町交差点の現代的喧騒から少し歩けば、西茶屋街の風情や寺町特有のたたずまいに出会うことができる。その界隈から遠からぬところに21世紀美術館があり、幅広いジャンルの現代アートにつつまれる。そこからしばらく歩けば鈴木大拙館があったりして、それぞれの色合いが、近距離の中で絶妙に組み合わされてもいるのだ。
 近ごろ、鈴木大拙館に凝っていて、金沢を訪れるときの外すことのできぬ場所となっている。私の知的レベルゆえ、鈴木大拙の仏教哲学世界に踏み入るというのではなく、鈴木大拙館の造形ぶりに惹かれてのことなのだが、あの水を張った中庭のごとき空間には、四季それぞれの趣の移りかわりがあり、朝と昼と夕方でさえも微妙にちがう感慨にひたらされる。その水面の模様などは、風が吹くたびに別のかおをつくりつづけ、見ていて飽きることがない。
 ただ、水面の波紋の変化を楽しんでいるうち、つい鏡花文学の手招きをおぼえ勝手な妄想に耽ったりして、禅の世界とはほど遠いよこばいをすることがある。鏡花と大拙・・・この二人の巨人の領域がそんな不埒な連鎖を生んでしまうのは、私の宿痾ともいうべき意識のよこばいゆえなのだろう。さらに私は、頭の中で交錯する両極の巨人への微熱を肴にして、新天地の居酒屋で、燗酒を楽しんだりしているのだから始末が悪い。
 だが、この不埒なよこばいもまた、天空のけしきと、天の配剤たる絶妙なまちの規模の組み合わせが生む、金沢ならではの贅沢というところへ落とし込んでしまうというわけで、金沢の知的真価に爪をかけることなど、私にはとうていおぼつかぬというわけである。

  1. 村松 友視
    (むらまつ・ともみ)

  2. 東京都生まれ。慶應義塾大学卒業。中央公論社編集部を経て作家となり、『時代屋の女房』で第87回直木賞を受賞。『鎌倉のおばさん』で第25回泉鏡花文学賞を受賞。著書に『私、プロレスの味方です』『幸田文のマッチ箱』『百合子さんは何色』『アブサン物語』『俵屋の不思議』『残月あそび』『アリと猪木のものがたり』など多数。泉鏡花文学賞選考委員。

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『薔薇の肌触り』

千早 茜

 小説家というなんとなくぼんやりとした仕事をしていますが、私自身は原因と結果を意識して行動するタイプで、運命や縁などという言葉を自主的に使うことはあまりありません。
 けれど、金沢のこととなると「縁がある」という表現がぴったりなように思われます。
 まずは、妹が住んでいるということ。そして、二〇〇九年に『魚神いおがみ』で第三十七回泉鏡花文学賞をいただいたこと。
 『魚神』は私のデビュー作でした。初めて書いた長編小説で小説すばる新人賞をいただき、念願の小説家になってまだ一年も経たないうちに、泉鏡花文学賞を受賞したとの報せを受け取りました。ちょうど好きな中華料理店でオーダーを終えた瞬間だったことを覚えています。注文をキャンセルして慌てて店の外へ飛び出しました。泉鏡花は大好きな文豪で、泉鏡花文学賞は憧れの賞でした。私は小心者なので、喜びよりも畏れ多さが勝り、かなり動揺してしまいました。辞退した方がいいのではと編集者に相談したり、こんなに早く夢を叶えてしまったら代わりにとてつもなく悪いことが身に降りかかるのではないかと怯えたりしました。
 けれど、その時ふと、金沢には縁があるのかもしれない、と思いました。『魚神』を書く前、金沢には何度も取材で行っています。茶屋街や辰巳たつみ用水をまわり、小松市の「苔の里」にも行きました。『魚神』は架空の島を舞台にした作品で、金沢そのものがモデルというわけではないのですが、金沢をはじめ、石川県のさまざまな場所で感じた湿度や水や緑の気配は作品に生かされています。
 そう思うと、気持ちは落ち着きました。きっと縁という言葉は、人を納得させるためにあるのでしょう。受賞者として恥ずかしくない小説家になろうと心に決めました。

 金沢での授賞式はあたたかい雰囲気でした。選考委員の先生方は優しく、合唱団の皆さまがお祝いに歌をうたってくださいました。
 印象的だったのは、胸につけていただいた深紅しんく薔薇ばらです。造花だとばかり思っていたのですが、壇上で座っていると胸の辺りから良い香りがしてきました。花びらに触れると、しっとりと柔らかく、かすかに冷たい。薔薇の香りを嗅ぎながら受賞スピーチをしたのは初めてでした。
 たくさんの方にお祝いの言葉をいただき、美味しいものを食べ、お酒を飲んで、ふわふわと夢のように金沢の夜が過ぎていきました。次の朝ホテルで目覚めると、深紅の薔薇がテーブルの上にあり、昨夜のことは夢ではなかったのだと教えてくれました。あの深い赤色は今も記憶に残っていて、薔薇の香りを嗅ぐたびに授賞式のことを思いだします。
 不安な気持ちではじめた小説家という仕事でしたが、この賞が勇気づけてくれた気がします。賞をいただいてから八年、今も書き続けることができています。

 仕事で金沢に住んでいた妹は、金沢の伝統工芸を生業なりわいとしている方と結婚しました。彼の作る伝統工芸品は美しく、歴史と文化の重みを感じます。彼女たちに会うため年に数回は金沢を訪れています。やはりご縁があるようです。
 金沢に行くたび、良い土地だと感じます。なんと言っても、食べものが美味しい。私の住む京都ではなかなか手に入らない海の幸がいっぱいです。日本酒も豊富でついつい食べ過ぎてしまいます。甘いもの好きの私にとっては、和菓子の種類が多いのも魅力です。なかでも、「えがら饅頭まんじゅう」が大好物。えがら饅頭目当てに能登の朝市に行ったくらい夢中です。いつもたくさん買って帰っては冷凍保存して、網で炙って食べています。小さい頃から餅菓子は好きなのですが、それを差し引いても私のえがら饅頭への執着は特別で、よく妹夫婦に呆れられています。ひとつの菓子のなかで糯米もちごめ部分と餅部分を両方楽しめる菓子は他にないのではないかと思うのですが、どうでしょう。

 京都からサンダーバードに乗り、金沢駅で降りると、空気の匂いが違います。肌に吸いつくような湿気があり、かすかに冷たい。泉鏡花文学賞をいただいた時に胸につけていた薔薇を思わせるような、しっとりした空気です。それは泉鏡花の文学にも通じるのではないかと思います。その土地の空気の中で生まれた文学が賞となり、脈々と受け継がれていくことは希少なことではないでしょうか。
 私にとって、金沢は第二の故郷のような土地です。北陸新幹線の開通いらいどんどん観光客が増えていっているようですが、どうか古き良き文化を失わずに、鏡花文学の気配を感じる金沢で在り続けて欲しいと願います。

  1. 千早 茜
    (ちはや・あかね)

  2. 昭和54年北海道江別市生まれ。幼少期をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。京都市在住。
    デビュー作『魚神』で、第21回小説すばる新人賞(平成20年)、第37回泉鏡花文学賞(平成21年)をW受賞。『あとかた』で第20回島清恋愛文学賞(平成25年)を受賞。
    著書に、『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』 『男ともだち』 『西洋菓子店プティ・フール』 『ガーデン』 『人形たちの白昼夢』など多数。

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『泉鏡花文学賞のご褒美』

小川 洋子

 今でも、二〇〇四年、『ブラフマンの埋葬』で第三十二回泉鏡花文学賞をいただいた時の、授賞式の思い出は、私にとって大事な記憶として鮮やかに残っている。
 何より、授賞式のためにサンダーバードに乗り、金沢まで行けるのがうれしかった。旅がプラスされることで、賞を頂戴した喜びに、遠足のわくわくした気分が重なって、いっそう胸が高鳴った。金沢駅を出て見上げる空の色、浅野川と犀川の流れ、橋のたたずまい、川沿いの小道の風景、そこかしこに鏡花文学の気配が漂い、これまで本の中で味わっていた空気がまさにここにある、という感じだった。鏡花文学と土地の結びつきを実感できたこと、まずそれが私にとっては賞のご褒美と言ってよかった。
 授賞式の雰囲気は、東京の出版社が主催する文学賞とはどこか違っていた。もっとアットホームで、素朴で、だからこそ運営に携わっておられる方々の、鏡花を誇りに思うお気持ちが真っすぐに伝わってくるようだった。賞の伝統を守り続けてきた自負と、遠くからやって来た受賞者をおもてなししようという心遣いが、会場の隅々にまで行き渡っていた。
 そして式の中で私が最も感動したのは、金沢市内の高校生たちがプレゼントしてくれた、合唱だった。どこにスタンバイしていたのか、学生服姿の彼らが静かに入場し、定位置に着き、第一声が響いた瞬間、なぜだか涙が込み上げてきた。あまりに予想外の反応で、自分でも慌ててしまった。歌詞を聴き取って感動する間も、メロディーに酔う間もない、一瞬の出来事で、ただもう涙が流れるままに任せるしかなかった。
 曲は『大地讃頌』と、五木寛之さん作詞の『浅野川恋歌』だった。高校生たちは皆、一生懸命歌っていた。しかも他ならぬ私のために歌ってくれているのだ。彼らの若々しく愛おしい声がいくつも重なり合い、私の心を震わせていた。自分がまだ小説など書こうともしていない遠い日、それどころか言葉も喋れず、言葉ではない何かで世界のありように耳を澄ましていた幼い頃の記憶が揺さぶられ、呼び覚まされるような、ダイナミックな感動がそこにはあった。
 何というご褒美だろうか。はっきり言って、他の文学賞のどんな賞品よりも、金沢の高校生たちの歌声の方が、ずっと素晴らしかった。今でも泉鏡花の名を目にするたび、彼らの歌声が蘇ってくる。何かの折り、鏡花文学賞の話題が出ると必ず、「とてもいい賞ですよ。高校生たちが合唱してくれるんですよ」と、熱く語っている。
 あの時の彼らも、もうとっくに学校を卒業し、社会に出ているだろう。今でも、歌をうたっているのだろうか。もしかしたら、授賞式で合唱したことなど忘れているかもしれない。しかし私の耳には、決して消えない歌声がずっと響き続けている。
 もう一つの、賞品以上のご褒美は、授賞式の翌日、用意されていた。泉鏡花記念館、茶屋街、兼六園、金沢城公園、と名所を観光している途中、何度も、すれ違う方から「鏡花文学賞の受賞おめでとうございます」と声を掛けていただいたのだ。「昨日のテレビのニュースで観ました」とおっしゃる方もいらした。
 見知らぬ方々からのお祝いの言葉は温かかった。この文学賞がどれほど深く町に浸透し、市民の皆さんに支援されているか、証明しているような出来事だった。そういう賞を自分は頂戴したんだなあと、改めてありがたい気持になった。
 人々が何度となく、泉鏡花の名前を口する。鏡花、鏡花と繰り返す。それだけでも文学賞の存在意義は大きいと思う。もちろん文学は読まれなければ何の意味もないのだが、生活の中にごく自然に小説家の名前が溶け込み、人々がまるでその作家の遠い親戚であるかのような、幸福な錯覚に浸れるというのも、文化の豊かさを示す一つの証拠になるだろう。
 こんなふうに地元の人々に大切にされている泉鏡花は、幸せな作家だ。作品が愛され、文学賞に名を残し、その賞自体がまた愛される。町と文学がここまで密接に良好な関係を結んでいるのは、珍しい例ではないだろうか。
 実は私のふるさと岡山市には、内田百閒文学賞がある。一九九〇年、百閒の生誕百年を記念して作られたものの、途中、財政難で休止したり、規模を縮小したりで苦戦を強いられながら、どうにか頑張っている。私も微力ではあるが、選考委員として協力している。
 内田百閒文学賞が、いつか泉鏡花文学賞のような賞に成長できればいいのに、と私は密かに夢見ている。地方都市が主催する文学賞の一つの理想として、鏡花文学賞を仰ぎ見ている。
 賞の在り方は時代とともに移り変わってゆくだろう。しかし、授賞式での合唱。この伝統だけはずっと守り続けていただきたい。受賞者を代表して、切にお願いする。

  1. 小川 洋子
    (おがわ・ようこ)

  2. 略歴
    昭和37年(1962) 岡山市生まれ
    昭和59年(1984) 早稲田大学第一文学部文芸科卒業
    昭和63年(1988) 『揚羽蝶が壊れる時』で海燕新人文学賞受賞
    平成3年(1991) 『妊娠カレンダー』で第104回芥川賞受賞
    平成16年(2004) 『博士の愛した数式』で第55回読売文学賞、第1回本屋大賞受賞
    『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞受賞
    平成18年(2006) 『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞を受賞
    平成24年(2012) 『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞
    平成25年(2013) 早稲田大学坪内逍遙大賞受賞

    著書
    『猫を抱いて象と泳ぐ』 『原稿零枚日記』 『人質の朗読会』 『最果てアーケード』『いつも彼らはどこかに』 『不時着する流星たち』など多数

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