室生犀星は、大正時代、昭和10年ごろ、第二次世界大戦後と、半世紀以上の年月、詩、小説、随筆の各ジャンルに多様な作品を発表し続けた文学者です。日本文学史の中で位置づけが難しい大変ユニークな文学者だと言われれています。
犀星は、1889年(明治22)8月1日に加賀藩の武士であった小畠弥左衛門吉種の子として生まれました。生後すぐに雨宝院住職室生真乗と内縁関係にあった赤井ハツにもらわれ、照道と名付けられました。7歳のとき室生真乗の養子となり室生姓を名乗ります。この出生の事情は、犀星の生涯に大きな影響を与え続けました。金沢地方裁判所の給仕として勤めていたときに俳句の手ほどきを受けたことから文学に目覚め、その後裁判所を辞めて、詩人として世に出るために金沢と東京を往復します。
1918年(大正7)に『愛の詩集』と『抒情小曲集』を相次いで刊行して詩人としての名声を確立したのに続き、翌1919年(大正8)には「中央公論」に小説「幼年時代」が掲載され、小説家としても本格的にスタートを切ります。「性に眼覚める頃」が掲載されたのもこの年です。1962年(昭和37)3月26日、肺癌により死去、翌年金沢市野田山墓地に埋葬されました。
1939年(昭和14)、犀星が50歳のときに「つくしこひしの歌」は雑誌『新女苑』に発表されました。犀星自身と妻のとみ子がモデルになっており婚約までの二人の交際の様子が、女性側の手紙を並べることで浮かび上がってきます。二人が結婚したのは、1918年(大正7)。この作品を書いたときから20年近い歳月が流れていました。前年にとみ子は脳溢血で倒れており、この作品は妻を介護する中で執筆されました。
物語の舞台になっているのは桜橋です。桜橋については犀星も作中に触れており、伴侶のとみ子さんと初めてデートをした橋とされています。犀星の妻、浅川とみ子は、この桜橋にほど近い池田町に生まれ育ちました。女学校時代から地元の新聞、雑誌に短歌を投稿する文学好きの女性だったようです。
犀川中流部に位置する桜橋の近くにはW坂もあり、W坂は井上靖「北の海」に描かれています。また、桜橋を少し下流に行った右岸の中川除町には、金沢市出身の建築家、谷口吉郎が設計した室生犀星文学碑があります。
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