室生犀星は、大正時代、昭和10年ごろ、第二次世界大戦後と、半世紀以上の年月、詩、小説、随筆の各ジャンルに多様な作品を発表し続けた文学者です。日本文学史の中で位置づけが難しい大変ユニークな文学者だと言われれています。
犀星は、1889年(明治22)8月1日に加賀藩の武士であった小畠弥左衛門吉種の子として生まれました。生後すぐに雨宝院住職室生真乗と内縁関係にあった赤井ハツにもらわれ、照道と名付けられました。7歳のとき室生真乗の養子となり室生姓を名乗ります。この出生の事情は、犀星の生涯に大きな影響を与え続けました。金沢地方裁判所の給仕として勤めていたときに俳句の手ほどきを受けたことから文学に目覚め、その後裁判所を辞めて、詩人として世に出るために金沢と東京を往復します。
1918年(大正7)に『愛の詩集』と『抒情小曲集』を相次いで刊行して詩人としての名声を確立したのに続き、翌1919年(大正8)には「中央公論」に小説「幼年時代」が掲載され、小説家としても本格的にスタートを切ります。「性に眼覚める頃」が掲載されたのもこの年です。1962年(昭和37)3月26日、肺癌により死去、翌年金沢市野田山墓地に埋葬されました。
1920年(大正9)『中央公論』6月号に掲載されました。東京から金沢にやってきた芝居の一座。主人公の養母と、近所の薫という娘、その母親の三人は、中村千鶴という座長に夢中になります。目の不自由な養父の世話もせずに、役者を家に呼んで深夜まで酒盛りする養母を、少年は苦々しく思っています。
少年にはおゑんという好きな娘がいるのですが、彼女は自分の兄の方が好きらしいのでヤキモキします。一方で薫も艶めかしい色香を放っており、主人公を悩ませるのです。
作品では、芝居が上演された劇場は「中央座」という名前になっていますが、これは明治の半ばから大正の半ばまで香林坊にあった「福助座」だと考えられています。
明治の後半の香林坊の様子が描かれています。現在の東急スクエア・東急ホテルのあたりにかつて香林坊大神宮があり、その広場には舞台となった劇場も建っていました。犀星は香林坊を山の手と下町の女性たち、さらには加賀芸者が行きかう、女性たちが華やぐ町として描いています。
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